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  福岡海星女子学院高等学校 福岡海星女子学院附属小学校 福岡海星女子学院マリア幼稚園  

【小学校の校長室から】潜伏キリシタン遺産 祈りの集落 校長 山田耕司

○ 今月、日本の18番目の世界文化遺産に「長崎・天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の登録が見通されています。本校と大変強い関わりを持つ出来事ですのでご紹介いたします。
この世界遺産を辿るように本校の6年生修学旅行団が「福岡海星小学校のルーツを探る旅」として通ります。南島原市の「有馬キリシタン遺産記念館」・長崎市外海の「出津集落」・長崎市「浦上集落」と「大浦天主堂」・長崎市西坂の「日本二十六聖人記念館」・熊本市西区島崎「聖母の丘」が訪れる中心となります。そこに共通するのは有名なミレーの絵画「晩鐘」にある「労働と祈り」に生きる人々の姿と6年生との出会いです。

○ NHK特集「人類の誕生」を興味深く視聴しました。第2集は「人類でなぜホモ・サピエンスだけが生き残ったか」が内容でした。
ヨーロッパで先に南部アフリカを出発し進化したネアンデルタール人と後発のホモ・サピエンスが共存した時期があったそうです。またこの2人類は移動の過程で中東付近で交配した事跡が現在の私達のDNAに2%程度残っていることも分かっています。氷河期を生き抜いたネアンデルタール人は色白で頑強な体躯をしていました。家族単位で生活をしました。その生活を維持するためには大量の食糧を必要としました。
 一方、ホモ・サピエンスは、群れ(後に集落に発展します)をつくり生活しました。群れを維持するために「原始宗教」を生みました。弱い立場(老人・幼児・病者・母子家庭)の仲間と共に生活することができました。アルタミラやラスコーの壁画にその痕跡を見ることができます。共同体生活を基本としたのです。集団狩猟も可能にしました。また、細身の体躯は摂取食糧のエコにも役立ちました。

○ 外海の「出津集落」は荒地と原野の外海地方は貧困にあえいでいました。江戸時代、大村藩と五島藩の提携により18世紀末に大量の開拓民を五島に移住させています。それ以前から、平戸方面の離島に密かに逃亡離散する人々が跡を絶ちませんでした。移住した人々の支えは「キリスト教の信仰」でした。最初に皆が集う「祈りの場」(後の教会堂)を求めました。今回世界遺産に指定された平戸地方の「黒島集落」、五島列島の「野崎島集落」「頭ヶ島集落」「江上集落」「久賀島集落」がその移住先に当たります。

○ 移住を許された土地は辺境の荒地・原野でした。雑木を切り岩石を取り除き、鍬1本で畑地を開墾しました。水利にも交易にも恵まれませんでした。
 明治になり「キリスト教禁教令」が解け、信仰の自由は欧米列強の明治政府への圧力によって与えられましたが、キリシタン(カトリック教会に帰ってきた信徒)の人々の生活困窮は続きました。フランスやスペイン・イタリアからやってきた宣教師(神父)の重要な仕事は「キリストの教え」を確かに伝え広めると共に、人々の生活基盤つくりでした。「出津集落」で生活改善に尽くしたド・ロ神父の活動は有名です。「浦上集落」では長崎に住む外国人の需要に合わせた新しい仕事を信徒に身につけさせました。牧畜・養鶏・肉屋・牛乳屋・パン屋・ハウスキーパー等です。

○ 世帯を持ちたい「出津集落」「浦上集落」等の次男・三男は移住を余儀なくされました。初期は九州各地の開墾地に移りました。福岡市の茶山・行橋市の新田原・熊本市の島崎・佐賀県の呼子等がそれです。
 熊本の島崎(琵琶崎)の中尾丸開墾地では、コール神父がマリアの宣教者フランシスコ修道会の5人のフランス人シスターとハンセン病者の治療療養に携わっていました。「浦上集落」の世話人高木仙右衛門の一族がこの地に移住し、農業から石材会社・タクシー会社を起業し私達の修道会の最大の支援者として尽力します。高木家は私達の学院との関わりも深く、50周年記念事業では「ルルドの聖母」を建立していただきました。
 人類ホモ・サピエンスは「祈り」と共にこの地球上で繁栄してきました。今こそ、その歩みを振り返り、よりよく生きることのあり方が求められます。

【小学校の校長室から】神の声 教頭 米倉信彦

○今年の九州北部地方の梅雨入りは昨年より20日以上早い5月28日でした。台風も発生しましたが、平年並みの雨量があるだろうという予報です。

○さて、「地の塩224号」にも書きました今から40年以上前の私が子どもの頃のお話の続きです。
 6年生になった私は、夏休みに父と一緒に広島県の西部にある三段峡を廻る2泊3日のサイクリングに出かけました。昼過ぎにたくさん汗をかいた私は、父と一緒に三段峡の近くの深い淵で汗を流すために泳ぐことにしました。山の中にある川の水は、プールと違い大変冷たく、とても気持ち良いものでした。淵の端には大きな岩が重なり岩の隙間から川下に大量の水が流れ落ちている場所がありました。泳ぎの得意だった私は、その隙間に足を入れて滑り落ちる準備をしていました。
 その時、心の中に『そこから滑り落ちるのは、危ないからやめなさい。』という声が聞こえたのです。私はすぐにその場所から離れ、水から上がりました。川の上から見ると、私が滑り落ちようとしていた場所は、大きな石がいくつも重なり、とても滑り下りたり泳いだりできる場所ではないことが分かりました。何十年も経ってから、あの時に聞こえてきた声が『神の声』だったのではないかと思うようになりました。保護者の皆様も、何か心の中に声が聞こえてきて、助けられたり教えられたりした経験はありませんか。

○5年生は、うきは市の農村で6月6日から8日までの間「農村宿泊体験」を行ってきました。うきは市にお住いの12世帯の方々のお家に2泊3日ほどホームステイをさせて頂き、そこで色々な活動を行います。今回は、初日に雨に降られて野外で行うジャガイモなどの「野菜収穫体験」ができませんでしたが、「森林セラピー体験」「バーベキュー」「そうめん流し」『陶芸体験」「ポプリ作り体験」「ハンモック体験」など普段の生活ではあまりできないようなことをたっぷり経験することができました。
2日目の夜には、蛍の乱舞も見ることができました。
 学校に帰校した5年生の子ども達の顔はとても充実し、満足した顔をしていました。きっとそれぞれの子ども達は3日間で新たな自分に出会い、各自の課題を少しずつでも克服してこれたのではないでしょうか。この貴重な経験が子ども達のさらなる自立の一歩となってくれることを願っています。
【子どもの感想】
(T児)  「農泊の中で一番楽しかったのは、森林セラピーでした。理由は、普段あまり見ることがない自然の姿をじっくりと観察し、カエルやイモリ、カニなどを見つけたり、植物を触ってみたりすることができたので、とても楽しかったです。」
(Y児)  「今回うきは市でお世話になった家族との出会いは、私の心の中にずっと残るものとなりました。出会った最初はとても緊張してドキドキしていました。でも、お話をたくさんしたり、一緒に過ごしたりしていたら、だんだんとうきは市の家族が本当の自分の家族のような気分になってきました。また、私が今までに体験したことがない面白い遊びを教えてくださったので、とても嬉しかったです。この3日間はとてもよい思い出になりました。」

 来年は現在の4年生がうきは市に行く番です。どうぞ楽しみにしていてください。

【小学校の校長室から】子どもたちの通学路 校長 山田耕司

○ 本校の図書館に1冊の写真絵本があります。ご来校の折、どうぞ手にとってご覧下さい。世界のあちこちの子どもたちの登校の様子が写し出されております。本当に世界には色々な国や地方があり子どもたちが生活をしています。
 子どもたちの通学路は様々です。遠い道のりをどんな苦労も厭わないで子どもたちは進みます。子どもにとってそれほど学校は魅力的な存在なのです。
 子どもが貴重な労働力として重要視されている国がまだまだあります。1950年代の日本は、戦後の復興期、食糧を増産するために北海道をはじめ各地で開拓が盛んでした。ブラジルをはじめ海外にまで農業移住をする人々もいました。家業の農業や漁業の一端を担うために学校を休まざるを得ない子どもたちが多数いました。学校に行けば友達と遊べる。未知のことを先生から学べ夢を育むことができる。その時間だけは子守りや家業から解放される。本が読める。楽しい時間です。
写真絵本の中の子どもたちの顔が眼がきらきらと輝いて見えます。                 

○ 子どもたちに夢を育む通学路で悲しい出来事が新潟市で再び起こりました。全国的に危機管理の声が強まっています。
「地域で子どもたちを守ろう」と。確かに福岡市でも地域の自治協議会・子ども育成会・老人クラブ・民生委員児童委員・PTA・学校等が総力を挙げ連携して臨んでいます。しかし、交通事故も幼児児童対象犯罪事件もいっこうに減りません。危険から身を守るための集団登校方式もメリットとデメリットが報告されています。
 私の暮らしていた英国では、学校の正門で学校と保護者が子ども一人ひとりの安全を確認して手渡しをしていました。公園は見通しよく鉄柵で囲まれ、中で遊ぶ子どもには保護者やベビーシッターが必ず付き添っていました。外出や買い物等子どもだけでの行動は法律で禁止されていました。多民族が居住する都市で、他者の力だけに依存しない自己責任の世界です。
一方、現代の都市では学校に行けない行かない子どもたちが増え続けています。不安・危機意識・無気力・過度の執着(ゲームやSNSパソコン、受験)等が起因です。その子にとって学校が魅力的な存在ではないのです。

○ 私立小学校に通う本校の児童は配慮すべきことが多々あります。居住する地域の方々との挨拶と交流、公共交通機関での過ごし方、学校周辺の子ども見守りグループの方との挨拶等、自立・自律が求められます。色々な方々に支えられて本校に通学ができます。
 人には幾つになっても忘れない家庭の味があります。同じように、私は海星っ子の舌に「海星の味」を刻みこんで欲しいと願っています。本をいっぱい読んだ。自然いっぱいのキャンパスで思い切り四季を感じた。いつもマリア様が私の側に居てくださった。
重い荷物を抱えて苦労して通う通学路の先に、私たちの海星小学校があります。

【小学校の校長室から】バトンタッチ 教頭 米倉信彦

○今年のゴールデンウィークは、前半の連休、後半の連休ともによい天気に恵まれました。それぞれのご家庭でお子様方と楽しい時間を過ごされたのではないかと思います。
 さて、今から40年以上前、私がまだ小学5年生だったころのお話です。当時は5月4日がまだ『みどりの日』ではありませんでしたから、ゴールデンウィークは飛び石連休になることが多くありました。しかし、その年は4日が日曜日にあたり、まとまったお休みが取れるので家族で安芸の宮島(私の実家は、安芸の宮島の対岸にありました。)に1泊2日のキャンプに行こうということになりました。私たち3人の兄弟はとても喜んで、早くから準備に取り掛かりました。長男の私は鍋や飯盒・皿や、食糧など、二男は家族の衣類など、三男は「おやつ隊長」に任命され、小さなリュックサックに家族のおやつを入れてもらい、当日を楽しみに待っていました。
 しかし、現在のように車できれいに整備されたキャンプ場まで行ってバンガローに泊まり、BBQを楽しむのとはわけが違います。電車で宮島の対岸まで行き(当時実家には車がありませんでした。)船で島に渡ります。そして、キャンプのできる宮島の裏側まで山道を歩いて行くのです。父は、勤めていた学校からテントを借りてきてくれました。昔のテントですから重さは20㎏近くあったのでしょうが、一人で担いで運んでくれました。また、母もたくさんの食糧を持って歩いてくれました。3男は途中でおんぶしてくれと半泣きになって頼んできました。今思うと3歳になる弟にとっては過酷なキャンプだったことでしょう。
 近くの小川で流れをせき止めて浴槽を作り、お風呂代わりにしたこと、夕食を食べているとシカが狙いに来て大騒動になったこと、テントで寝る時は、海の波の音がとてもここちよかったこと、帰りの山道で、のどが渇いたので父から教わって湧水を飲んだこと、当時の楽しかったこと、印象に残ったことなどは、40年以上たった今でもまだ鮮明に覚えています

○13日(日)は、「主の昇天」の祝日でした。

【マルコによる福音】
 そのとき、イエスは11人の弟子に現れて、言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音をのべ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。

 イエス様は、天に帰られる前に弟子たちに、「これからはあなた達の出番です。わたしのやってきた宣教を皆さんが引き継いでやっていきなさい。」とご命じになられ、バトンタッチされたのです。そこで弟子たちは大変不安ではあったのでしょうが「聖パウロの伝道旅行」などにみられるように自分の置かれたところで、精一杯イエス様からいただいたバトンを次の人に渡すべく福音宣教をされたのです。
 この聖書を読んで、私は自分の父や母から受け継いだものを自分の子ども達にどれだけ伝えられただろうかと考えてしまいました。前述した「宮島キャンプ」。同じことは出来ないにしても、子ども達が大人になって自分の子ども達に伝えたいと思うものを残せてやれたのだろうか。
 保護者の皆様は、ご自分のお子様方に何をバトンタッチされますか。

【小学校の校長室から】シスター方がつくられた海星小学校 校長 山田 耕司

○ 本校の校友会誌「ひかり45号」は開校50周年記念誌として編纂されています。その巻頭言に嶋田理事長先生が、海星小学校のルーツに触れておられます。明治時代の文豪森鴎外の「小倉日記」に次のような記述があります。「田圃間を過ぎて本妙寺に至る。蓋ある車をとめて、銭を乞う廃人二、三をみる。既にして寺に近づけば乞食漸く多く、その中には癩人最も多し。寺は丘上にあり・・・(中略)。カトリック『フランチスカアネル』のフランス女子数人の経営に成る。医学あるものにあらずといえども、間間に薬を投ず。その功績堪えたるものあり。」
 これは中尾丸診療所(現熊本市西区島崎)で政府も見限った病人方の世話をする5人のシスター方の姿です。

○ 森鴎外は軍医としても高名な方で、ドイツに4年間留学し先進国の医療制度を学び、1899年~1902年の小倉勤務以外は首都圏の陸軍中枢で活躍しました。 小倉時代には西部方面の軍医統括責任者として各県各部隊の医療状況を巡察します。上記の記事は、1899年、熊本巡察の折に鴎外の目に留まった出来事でした。
 日本は発展途上の明治時代です。「廃人」とか「乞食」と称される人々が町には存在しました。その中で最も疎んじられたのが「癩人」(らい病患者)でした。
 生まれ故郷から追い出された人々は行き場を失い、全国を放浪するしかありませんでした。日本では昭和時代の中ごろまで「癩病(らいびょう)」ハンセン氏病は不治の病で伝染すると信じられていました。そのため政府の隔離政策が取られました。一般的に国民は映画「小島の春」や「砂の器」で知ることになります。

○ 「小倉日記」にある「フランチスカアネル」は「フランシスカン」のことで「フランシスコ会修道者」を意味します。そうです。私たち福岡海星小学校をつくられた「マリアの宣教者フランシスコ修道会」のことです。
 1897年、マリアの宣教者フランシスコ修道会(本部ローマ)創立者マリ・ド・ラ・パシオンは、長崎教区のクザン司教から、熊本・筑後地区で宣教活動に取り組んでいるコール神父(フランス人) のハンセン氏病事業に会員派遣の要請を受けました。この年はフランシスコ会が日本26聖人殉教者300年祭(1597-1897)を祝っておりました。創立者はこの要請を、その生き方を修道会が模範とする聖フランシスコ(12世紀のイタリア・アシジの聖人。イタリアでキリストの再来と尊敬されている)の愛の招きと受け止め、長い迫害(260年間続いた潜伏キリシタン時代)でフランシスコ会修道士が消えてしまった日本へ、多くの派遣希望者の中から5名の会員(シスター)を選び派遣しました。

○ 創立者から熊本修道院長への手紙(1898年7月)
 愛するコロンブ、あなたの心はきっと日本のハンセン病院のために高鳴りときめいていることでしょう!あなた自身が院長として派遣されることになりました。本会が信頼をこめてあなたに委ねるこの務めをよく果たしてくださることを期待しております。

 5人のシスターのことば
マリアのように「わたしは主のはしためです。
お言葉どうり、この身になりますように」(ルカ福音書1-38) の態度で愛によって全存在を奉献します。

○ 続いて1908年、7名のシスターが当時辺境と言われた北海道の開拓民救済と宣教のために札幌に派遣されます。伝染病・結核の隔離治療を行う天使病院を開設します。さらに1931年、東京の落合(現新宿区)に貧困者のための聖母病院を開設します。1951年、福岡修道院(現高宮)が創設され当地での活動が始まります。
 アシジの聖フランシスコを模範に、それぞれの時代に、社会で最も苦しんでいる人々に向けて活動をするのが、この修道会の特色です。そして、これらの精神の下に福岡海星小学校がつくられました。6歳~12歳の子育ち・子育ての時期に、それぞれの子どもたちに神さまから与えられた個の力と使命を、子ども自身が醸成する営みに、カトリックの学校として関わることに、神の恵みと豊かな幸せを感じます。