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  福岡海星女子学院高等学校 福岡海星女子学院附属小学校 福岡海星女子学院マリア幼稚園  

【小学校の校長室から】シスター方がつくられた海星小学校 校長 山田 耕司

○ 本校の校友会誌「ひかり45号」は開校50周年記念誌として編纂されています。その巻頭言に嶋田理事長先生が、海星小学校のルーツに触れておられます。明治時代の文豪森鴎外の「小倉日記」に次のような記述があります。「田圃間を過ぎて本妙寺に至る。蓋ある車をとめて、銭を乞う廃人二、三をみる。既にして寺に近づけば乞食漸く多く、その中には癩人最も多し。寺は丘上にあり・・・(中略)。カトリック『フランチスカアネル』のフランス女子数人の経営に成る。医学あるものにあらずといえども、間間に薬を投ず。その功績堪えたるものあり。」
 これは中尾丸診療所(現熊本市西区島崎)で政府も見限った病人方の世話をする5人のシスター方の姿です。

○ 森鴎外は軍医としても高名な方で、ドイツに4年間留学し先進国の医療制度を学び、1899年~1902年の小倉勤務以外は首都圏の陸軍中枢で活躍しました。 小倉時代には西部方面の軍医統括責任者として各県各部隊の医療状況を巡察します。上記の記事は、1899年、熊本巡察の折に鴎外の目に留まった出来事でした。
 日本は発展途上の明治時代です。「廃人」とか「乞食」と称される人々が町には存在しました。その中で最も疎んじられたのが「癩人」(らい病患者)でした。
 生まれ故郷から追い出された人々は行き場を失い、全国を放浪するしかありませんでした。日本では昭和時代の中ごろまで「癩病(らいびょう)」ハンセン氏病は不治の病で伝染すると信じられていました。そのため政府の隔離政策が取られました。一般的に国民は映画「小島の春」や「砂の器」で知ることになります。

○ 「小倉日記」にある「フランチスカアネル」は「フランシスカン」のことで「フランシスコ会修道者」を意味します。そうです。私たち福岡海星小学校をつくられた「マリアの宣教者フランシスコ修道会」のことです。
 1897年、マリアの宣教者フランシスコ修道会(本部ローマ)創立者マリ・ド・ラ・パシオンは、長崎教区のクザン司教から、熊本・筑後地区で宣教活動に取り組んでいるコール神父(フランス人) のハンセン氏病事業に会員派遣の要請を受けました。この年はフランシスコ会が日本26聖人殉教者300年祭(1597-1897)を祝っておりました。創立者はこの要請を、その生き方を修道会が模範とする聖フランシスコ(12世紀のイタリア・アシジの聖人。イタリアでキリストの再来と尊敬されている)の愛の招きと受け止め、長い迫害(260年間続いた潜伏キリシタン時代)でフランシスコ会修道士が消えてしまった日本へ、多くの派遣希望者の中から5名の会員(シスター)を選び派遣しました。

○ 創立者から熊本修道院長への手紙(1898年7月)
 愛するコロンブ、あなたの心はきっと日本のハンセン病院のために高鳴りときめいていることでしょう!あなた自身が院長として派遣されることになりました。本会が信頼をこめてあなたに委ねるこの務めをよく果たしてくださることを期待しております。

 5人のシスターのことば
マリアのように「わたしは主のはしためです。
お言葉どうり、この身になりますように」(ルカ福音書1-38) の態度で愛によって全存在を奉献します。

○ 続いて1908年、7名のシスターが当時辺境と言われた北海道の開拓民救済と宣教のために札幌に派遣されます。伝染病・結核の隔離治療を行う天使病院を開設します。さらに1931年、東京の落合(現新宿区)に貧困者のための聖母病院を開設します。1951年、福岡修道院(現高宮)が創設され当地での活動が始まります。
 アシジの聖フランシスコを模範に、それぞれの時代に、社会で最も苦しんでいる人々に向けて活動をするのが、この修道会の特色です。そして、これらの精神の下に福岡海星小学校がつくられました。6歳~12歳の子育ち・子育ての時期に、それぞれの子どもたちに神さまから与えられた個の力と使命を、子ども自身が醸成する営みに、カトリックの学校として関わることに、神の恵みと豊かな幸せを感じます。